4巻<花咲く乙女たちのかげにⅡ>p392-422.
今日の箇所は、重要な部分がありました。
主人公は相変わらず、娘たちと出会うことを求めています。
少女から変貌していく娘たちについて描写している部分は、とてもメルヘンチックで素敵だと思いました。
あとは、相変わらず、はいはいって感じですが(笑)
今回、注目すべきは、何と言っても画家エルスチールの登場でしょう。
リヴベルのレストランで見かけた男性がスワンも言及していた有名な画家だと知ると、主人公とサン=ルーは、ボーイを通してエルスチールに手紙を渡します。このとき2人は画家の作品をなにひとつ見たことがなかったのですから、いわゆるミーハーですね(笑)
でも、エルスチールは主人公たちのテーブルに来てくれ、主人公の美術好きが伝わると、バルベックのアトリエにまで招待してくれたのです。これは嬉しいですね。
このことに付随して、芸術家のある種の純粋な気持ちや制作に向き合う中で生じる孤独への愛について考察された部分は、大変興味深いです。
エルスチールについては、忘れていたことも色々ありました。
まず、背は高くて端正な顔立ち、頰ひげを蓄えているという外見でした。
また、多分画風からターナーっぽい印象になっていたのですが、それもどうなのかなあとか…。「海上の日の出」を描いた小品ともあるし、モネっぽいところもあるのかしら。
ただ、主人公は、アトリエにまで招待してくれた著名な画家より娘たちの方がよっぽど気になっているようで、祖母の影まで薄くなってしまったそうです。
主人公って、とことんイメージ先行なんですよね。特定の少女に出会って話して気になっていくというより、出会う前から自分の中にイメージが沸き起こってきて恋が始まっていく。ジルベルトのとき(初恋)もそうだったと思います。
恋愛に関する考察で、初恋の特徴がその後の恋愛に引き継がれていくのかもしれないということも書かれていました。
ようやくエルスチールのアトリエに行くと、やっぱり感動したようですが。
エルスチールとの場面は、次回の箇所にも続いています。
4巻<花咲く乙女たちのかげにⅡ>p362-392.
昨日読んだ箇所です。
プルーストって、ホイッスラー好きなのかな。
私も好きです。フェルメールもそうだけど、白の表現が巧い画家が好き。
主人公は、相変わらず娘たちと知り合いたい欲求にかられていますね。神経もだいぶ高まっているようです。
一方、友人のサン=ルーは愛人に忠誠を尽くしているようですが、以前は放蕩三昧で随分女性にもモテてきたことが分かります。
この小説では、眠りについてネガティブな印象で記述されている箇所が多いように感じられるのですが、今回の箇所でも、疲れきった主人公がなかなか眠ることのできない様子が描かれています。
何というか、自分の体験からも、神経症傾向にある人ならではの不眠なのではないかというふうにも思われます。
主人公が娘たちとの出会いに神経をたかぶらせているところは、正直はいはいと読んでいる感じなので、今日は感想はこれくらいです(笑)
4巻<花咲く乙女たちのかげにⅡ>p332-362.
今日は、あまり時間がなくて読み飛ばしてしまった部分もあります。
前回、主人公が色んな女性を眺めている部分はちょっと退屈だったと書きましたが、かなり重要な箇所だったことが判明しました(笑)
すっかり忘れていましたが、今日の箇所で、それがアルベルチーヌを主人公が初めて目にする場面だと気がつきました。
これも、恋愛を描く時に繰り返し記述されていることですが、相手の生活を知りたくなるというのが恋の始まりのサインのようです。欲望を駆り立てるのは、相手の全生活であるということも書かれていました。
私も、何となく相手の生活が大体想像できてしまうような人(色々な部分で自分と似ていると感じる人)よりは、どんな生活をしているのだろうと感じる人(自分と違っていて刺激がありそうな人)の方に恋してしまう気がします。
もしかすると、プルーストの言う「べつの生活への渇き」が恋愛の原動力になるのかな…。
また、そうした想像力は、めざす対象に到達できるかどうか判然としないがゆえに、活性化するとも書かれています。
簡単に手が届かないと感じる方が、相手を知りたいと思って燃えるということでしょうか。
主人公は、この娘たちが「シモネのお嬢さんのお友達」であることを知りますが、このシモネ嬢がすなわちアルベルチーヌであり、のちに主人公にとって重要な意味を帯びてくるわけですね。
もっとも、主人公は既に、シモネ嬢はなかでも1番綺麗な娘に違いなく、自分の恋人になる可能性を備えていると考えているようですが、気が早すぎてちょっと面白いです(笑)
今日は以上です。
4巻<花咲く乙女たちのかげにⅡ>p302-332.
今日の箇所は、サン=ルーの恋愛についての考察が中心で、かなり見所もありました。
まずは、ブロック父子との交流の場面からです。
ブロック氏がルーベンスの作品と紹介するのは、おそらく偽物なんでしょうね。
署名があるのかと馬鹿正直に訊ねるサン=ルーは、何かお坊ちゃんだなあと思いました。
そのあと、ブロックがサン=ルーの叔父であるシャルリュス氏のことをひどい言葉でけなしたのは、ちょっと意味が分かりませんでした。激怒かつ絶交されて当然くらいの、普通にひどい言動だと思います。
続いて、サン=ルーの恋愛に付随する考察です。
プルーストは、女性と付き合うことで男性は変わる、女性から学び取るものがあるということを、繰り返し記述してきているので、そういう印象をもっていたのでしょう。ここではストレートにそのことが書かれています。
女性には男性よりも感受性が豊かで繊細な配慮を要することに関心を寄せるため、そういったところから私利私欲を離れた交友の大切さなどを学べるというのです。
…男性視点で恋愛から学び取るものを考えたことはなかったけれど、どうなんですかね。元々そういう繊細な配慮のできる男性もいるんじゃないかなあとも思うのですが。
ただし、今のサン=ルーの恋愛事情はかなり苦しいものとなっているようで、愛人からかなりすげなくされているようです(ところで、サン=ルーは結婚している訳ではないから、この「愛人」という訳にはやや違和感を覚えます)。
この愛人は、サン=ルー自身が「美人じゃない」と言っていることから容姿が飛び抜けている訳でもなさそうであるうえ、サン=ルーに対する言動から性格もそれほどよさそうでなく、立場も自称女優みたいな感じに過ぎないのに、サン=ルーのように優しく知性の高いお坊ちゃんを夢中にさせられているって、どんだけラッキーなんだと思ってしまいますが…。
そのあとの、主人公が1人で色んな女性を眺めている場面は、ちょっと退屈な感じだったので割愛します(笑)
今日は以上です。
サボったときが長すぎたせいか、ぎりぎり今月中に読み終わらなさそう(涙)
4巻<花咲く乙女たちのかげにⅡ>p271-302.
ここは、今日読んだ箇所です。
ヴィルパリジ夫人の部屋から自室に戻った主人公をシャルリュス男爵が訪ねてきます。
主人公が寝る前に悲しみを覚えることを知り、主人公の好きなベルゴットの本をもってくるなど優しいのですが、主人公の祖母への愛情を“報いられる愛情”と語るところなんかは意味深だなと思いました。
しかし、出発の前日になって、主人公に対し「老いぼれのお祖母さんなんか、どうだっていいじゃないか」とか、当たり前の感情を口にするのは控えろとか、相手の言葉に食ってかかるような答え方をするなとか、言ってきたことには驚きました。主人公がシャルリュス男爵の真意というか秘密というか、その部分を汲み取れなかったことにイライラしたんでしょうか。
続いて、ブロックの父親が登場しますが、ただ見かけただけの有名人をさも交流があるように言うのは、いけすかないですねえ…。
ブロック一家は、子供たちが父を慕い、妹が兄(ブロック)を慕っていて、結束が固い家族なんだなという点ではいい面もあるとは思うのですが…。
今日は、以上です。
4巻<花咲く乙女たちのかげにⅡ>p240-271.
ここは、昨日読んだ箇所です。
とうとうシャルリュス男爵と主人公が面識をもちます。
シャルリュス男爵って、サン=ルーの叔父だったのですね。後の巻でシャルリュス男爵が中心的に取り上げられるパートの印象が強すぎて、それ以前の部分はすっかり忘れてしまっているようです。
シャルリュス男爵は、若い頃から美男子でとても粋な人であったようですね。今現在も貴族の誇りをもち、入念な身なりをしているようです。
ただ、単に貴族のダンディな叔父として描かれている訳ではなく、割とちぐはぐな面も描かれており、のちの伏線として描かれているのではないかと思いました。
まず、主人公との初対面が斬新というか、カジノの前でじっと自分をみつめるシャルリュス男爵を、サン=ルーの叔父とは知らない主人公が、泥棒か精神異常者ではないかという印象を受けたというのはちょっと笑ってしまいました。でも、何らかの秘密を抱えているオーラを感じたというのは、当たらずも遠からずって感じですね。
その後、主人公がタンソンヴィルでシャルリュス男爵を一度見かけたことがあると気づくのですが、この設定は何か意味があるのかな…?
そして、シャルリュス男爵はヴィルパリジ夫人の部屋でのお茶に主人公を誘いますが、実際に主人公が祖母をともなって行くと、「いやあ!よく想いついて、訪ねてくださいました」などと言うところは奇妙ですね。
そして、「こんばんいらしてくださいと私たちにおっしゃったのはあなたのほうですよね?」と問いただす主人公をシャルリュス男爵は無視しますが、これは無粋で子供っぽいというように映ったのではないでしょうか。
また、シャルリュス男爵は、「セヴィニエ夫人の手紙」に関して女性的な感性で深く理解したり、声の中に女性的な要素も見られる一方、女性化した今時の青年を糾弾する=男らしさにこだわる面があり(肉体の鍛錬にも余念がなく徒歩で旅をする等)、そのあたりに少しちぐはぐさを感じます。
以上です。
4巻<花咲く乙女たちのかげにⅡ>p208-240.
挫折した訳ではありません。
しばらく中断していましたが、今週から再開しました。
ただ、この箇所はかなり前に読みました。なので、不正確な部分もあるかもしれません。
主人公は、ヴィルパルジ夫人の甥サン=ルーと仲良くなっています。
そのなかで、主人公が、1人でいるときと友人といるときについて考察している箇所が興味深いです。主人公は、サン=ルーのような友人といても、1人でいるときに感じられる幸福を感じないと述べています。
友人といるときは、自分を心地よくしてくれる印象が心の底から湧きあがってくるのを感じられるのに対し、友人といるとその精神が相手に向かってしまうというのです。
内向的なところのある人には分かる記述かなと思います。何ていうか、食事をするのでも、実は1人で食べる方が料理の感動を味わえる所がある気がします。景色を観るのもそうで、1人で歩いている方が感動的な断片をキャッチして、その印象を味わい切ることができるような気がします。
ただ、一方で、主人公が言うように、本質的な幸せとは違うかもしれませんが、「いい友人がいる」という考えもあるのですよね…。
サン=ルー自身は、とても親切で知的な青年という印象で、若く階級にこだわらないふるまいをしているようです。今流行りの共感性羞恥というか、人の恥になるような行動を目の当たりにすると、自分の顔が赤くなってしまうような心の深みもある青年です。
主人公の悪友ブロックもこの交流に加わってきますが、何というか、サン=ルーとは対照的なところが多いです。社会的な立場もそうかもしれませんが、それよりも性格上の品性というか…ここはあえて対比的に書いているのかなという感じです。
対人関係についての考察もとても面白いです。
他人の機嫌を損なうことを予期するのは難しいため、用心して自分のことを話さないようにするのがよいとのことです。
自分のイメージというのは、自分のいない場で他人が自分のことを話している言葉を通じて作られてしまう面もあり、自分が自分について語ったことが、極めて不都合な解釈をひきおこすことを考えておいて間違いないそうです。
これは、大人になると分かってくることっていう感じがします。でも、たまに自分のことをやけに話さない人っていますが、あれもちょっと印象悪いです。すごく計算高いというか抜け目のない人だなって感じます。
また、人が他人の欠点の話題を通して自分のことを遠回しに話すこともある(人はそこに歓びを感じる)とかも、興味深いですね。
さらに、「われわれひとりひとりには特別な神がついていて、その欠点を本人から隠すか他人の目には見えないと保証するかしてくれる」と書かれていました。ちょっと皮肉っぽいですが、人って自分が嫌われる理由とか他人からどう見えているかとか、なかなか自分自身で正確に把握することはできないですよね。もしそれができる人がいたら、すごいと思います。
主人公たちの交流について戻ると、ブロックは、主人公にはサン=ルーの悪口を言い、サン=ルーには主人公の悪口を言うなんて、典型的な陰湿な奴ですね…。ただ、それに翻弄されるほど主人公は浅はかでなく、とても冷静に捉えています。
これに付随して、主人公にとって、母親や祖母のように“絶対にけがれのない人”(主人公に対し裏表がなく純粋で無条件の愛情を与えてくれる人という意味?)が消滅したと思えるようになってからは、表向きも自分に対して粗野な人間を選ぶか、陰で悪くは使っても傍にいるときは優しく接してくれる人を選ぶかしかなく、後者の方がまだ付き合いやすいと思うと述べています。
私も、これには同意です。前者は自サバの人とかが典型じゃないでしょうか?表向きだけでも優しく共感的に振舞ってくれる人の方が、付き合う上での不快はないと思います。辛辣な本心を見せない(裏表を作る)とういのも、相手に対して手間暇をかける誠意と受け取ることもできますし。
それから、ブロックの虚偽の混じった(と思われる)発言に関して、大胆に真実を口にしながらかなりの嘘を交えるという方法は、広く使われているということも書かれていました。
以上、一週間以上前に読んだ箇所ですが、意外と覚えていました。