3巻<花咲く乙女たちのかげにⅠ>p245-277.
主人公とスワン一家が順化自然観察園にお出かけする場面ですが、オデットの立ち話の場面は、正直読み飛ばしました。こういうのは、当時の風俗に関する知識がないと難しいです。
とうとうスワン家での会食で、主人公はベルゴットに初めて会うことになります。
ベルゴットを崇拝してきた主人公は、物憂げな老人をベルゴットの姿としてイメージしていたようですが、実物を見て「死ぬほど悲しかった」そうです(笑)めちゃくちゃ失礼ですよね。
初めて読んだ時もそうだったのですが、「カタツムリの殻の形をした赤い鼻」ってどんな鼻なんでしょう?私の知っているカタツムリの殻って渦を巻いた形をしているから、それって人間の鼻の形になりえないのですが…。ここがずっと不思議なんですよねえ。
スワン、オデットもそうなのですが、イメージの絵があればなあって思います。オデットは、最近、日本の女優さんでいえば、りょうさんとか高岡早紀さんみたいな感じなのかなって思っていますが。スワンは、本当によく分からないです。
ベルゴットとそう遠くない席につけた主人公は、ベルゴットが話をするのも聴いていますが、ここでも違和感を覚えつつ、やがてそこにベルゴットを見出していったようです。
このあたりは、表現が難解で正直よく分かりませんでした。
ただ、プルーストは、優れた芸術家とは、従来の月並みな表現を排除して独創的な表現をするもので、ゆえにすぐには理解されないということを、繰り返し書いているような気がします。
丁寧に読もうとは思うのですが、あまりこだわっていると読むのが苦痛になって挫折してしまいそうだし、そのバランスが非常に難しいです。
3巻<花咲く乙女たちのかげにⅠ>p216-245.
最初の箇所で、恋愛感情が消滅したあとの描写が見事だなあと思いました。
オデットへの恋心がなくなると、スワンは、自尊心を踏みにじられたことの報復もどうでもよくなり、むしろ新たな恋をオデットに気づかれないように細心の注意を払うようになったとのことです。やっぱり、女好きの男性って、大恋愛をしてもこういう結末になりがちなんですかねえ…。
主人公はスワン夫妻に随分気に入られているようです。
最初好かれていなかったはずですが、コタールの言葉だけでここまでになるとは思えないし、どういうことなのか背景がよく分かりません。主人公は娘のことを好いているし、実際接してみての印象がよかったということなのでしょうか。
ところで、小説を読んでいると、進めるのがしんどいパートってほぼ必ずありますよね。今回、主人公がヴァントゥイユのソナタを聴いた際の考察の箇所が、それに該当(笑)
でも、そこから発展する議論にはとても興味深いところがあります。
確かに、天才の作った作品が種をまいて、それが長い年月をかけて聴衆を育てていき、やがて広く理解されるようになるという現象は、芸術の分野ではそれなりにあることなのかもしれませんね。
主人公がやたらオデットに憧れのような感情を抱いているのはよく分かりません。
子供にとっては、好きな子の美人なお母さん(多分、経歴からくる独特の雰囲気もある)というだけで崇拝の対象になるのでしょうか。何となく、この頃の主人公の方が、既にオデットより知性が高そうな気がするんですけどね…。
あと、ジルベルトが優しい子なのは分かるのですが、分別のある子とされる一例として、ヴァントゥイユ嬢のことを親不孝みたいに言っているところを挙げるのはどうなんでしょう。
現代的な感覚からすると、ヴァントゥイユ氏が勝手に苦悩しただけで、ヴァントゥイユ嬢自身があえて親不孝なことをしたという訳ではないと思うんですけどね。まあ、そこは子供というか当時の感覚なのかもしれませんが。
今日は以上です。
3巻<花咲く乙女たちのかげにⅠ>p186-216.
今日はちょっと寝不足だったので、あまり読み込めていないかもしれません。
スワンの変貌は色々説明されているけれど、よく分からない部分もあります。
2巻までスワンは慎み深く洗練された社交性の持ち主として描かれていたように思いますが、今のスワンは、交流する相手の選び方も、その相手を話題にするやり方も、一言で言うと、一気にくだらなくなったような感じがあります。
色々な言葉でそれが説明されていますが、要はオデットの経歴から夫妻としては社交界からシャットアウトされてしまい(スワン個人としてはまだ交流がある様子)、余裕がなくなったということでしょうか。
どの世界でも一流の人より二流くらいの人の方がマウントをとりたがるようなところはあると思いますが、置かれた立場が変わったとしても、同じジャンルのことについてここまで変わるかなあと思います…。
オデットがコタール夫人と付き合って何のメリットがあるのかという所については、主人公の父親が理解に苦しむ一方で、母親は同じ女性だからか鋭く理解していますよね。
要は、かつての交際仲間に今の自分の華やかな交友関係を触れまわってもらうことで、自分が羨望のまなざしを浴びることに繋げたいみたいな期待があるんですよね。
今ならSNSがあるからわざわざ人を介する必要もないのかもしれません。でも、逆に「映えるものじゃなきゃ自慢にならないから価値が半減する」くらいに思う気持ちと似ているような気もします。
ここでドレフュス事件のことが触れられていますが、後でもっと出てくるようですね。
もう少し歴史や時代背景というか、当時のパリの文化や雰囲気を深く理解していたら、もっと見えてくるものもあるのかなぁと思うのですが…(正直、オデットが社交上とんでもなく非常識なことを口走るという箇所も、註がないと理解が難しかったです)。
この小説の中では、恋愛ってこういうものみたいなことが多々書かれていますが、どれも深みがあって面白いなと思います。
今回は、スワンが知性に関してもお粗末なオデットの話を感心してうっとり聴く一方、オデットはスワンが深遠なことを話しても関心を示さず時には厳しく反論するという箇所で、エリートが俗悪な相手に隷属するのが多くの夫婦の掟と結論づけられていました。
スワン夫妻とは男女逆の場合もあるようですが、確かに、そういうカップルってありがちなのかもしれませんね。
それから、スワンは自分が訪ねてオデットが出てくれなかった際、オデットがフォルシュヴィルと寝ていたのかについて、嫉妬を感じなくなった後も知ろうとはしていたようです。
このあたりの複雑な心は、結構理解するのが難しいです。こんな修羅場みたいなこと経験したことないので(笑)
スワンに関しては、ひときわ厚みのある記述がなされているなあと感じます。
3巻<花咲く乙女たちのかげにⅠ>p156-186.
今月は先月のようにならないよう、余裕をもって読み進められている気がします。
ジルベルトに取っ組み合いをしかける主人公の下心…ここは印象に残りそうなものだけど、忘れていました。主人公ってものすごくデリケートな感じがするけれど、急に大胆な行動に出ますよね。
シャンゼリゼで遊んで体調を崩す子供が出ているという話で、主人公も大変な体調不良に陥ります。当時、実際にこういうことがあったのでしょうか?
主人公が病弱っぽいのは、記述からするとやはり作者のプルーストと同じく喘息的なものなのっぽいのかなと思いました。
ここで、主人公の初恋に急展開があります。
偶然が積み重なって、ジルベルトのおやつの会に招かれるようになったのです。偶然とはいえ、ブロックとコタールはグッジョブですね。主人公が夢みて恋い焦がれていたジルベルトの生活の中へと導いてくれたのですから。
それにしても、当時は、こうやってお金持ちの子供が大人を真似て、サロンごっこのようなことをやっていたのでしょうか。私は大人ですが、スイーツの出てくるおやつのサロンはちょっと行ってみたい気がします。
この調子で頑張ります。
3巻<花咲く乙女たちのかげにⅠ>p126-156.
一昨日読んだ箇所です。
主人公の父親は、文学などくだらんと考えているタイプかと思いましたが、ノルポワ氏の影響を受けて、息子の人生についてこれまでの態度を大分緩めたようです。
このくだりで、主人公が自分の人生が既に始まっており、自分が「時間」の中にいることに気づく心情が描かれていますが、こうした恐れの感覚は自分も子供の頃に抱いたような気がします。生まれたときにあった無限の可能性が生きてきた時間の分だけ狭まったように感じたり、人生が有限であることに気づいたり…。
その後、ノルポワ氏に料理を褒められたフランソワーズが色々なレストランの評価をする箇所があるのですが、これは実際にお店を知っていたらもっと楽しめる記述だろうなあと思いました。
続いて、年始のお出かけの中で主人公がラ・ベルマのブロマイドを買うところがあるのですが、こんなに昔からブロマイドってあったのですね。私も、多分主人公くらいの年齢のときに好きなアイドルの写真を買ったり、ポスターにキスしたりしていました(笑)
その後、ジルベルトのイメージに関する主人公の考察はとても興味深いです。愛する人に関しては、目の前にすると心が揺さぶられ色々な感情が沸き起こるがゆえに注意力が乱され、明確なイメージを掴むことができなくなるというのです。確かに、強い感情を抱いている相手のことを冷徹な目で観察しその結果を頭の中にとどめるって、およそ不可能なことのように思えますよね。それを、「ピンぼけの写真しか撮れない」と表現するのは巧みだなあと思います。
それにしても、主人公に直接、「パパとママは、あなたが好きじゃないの!」と言ってしまうジルベルト、残酷だなあと思いました。
主人公はスワン宛に長い手紙をしたためたものの功を奏さず。これは、スワンと主人公一家が疎遠になっていたことと関係していると考えていいんですよね?それとも、娘のことが好きそうだから警戒されているだけ?
なかなか苦しい初恋が描かれていますね。
3巻<花咲く乙女たちのかげにⅠ>p96-126.
今回の箇所では、ずっと気になっていた結婚前のオデットの心情についても触れられており、少しだけすっきりしました。
オデットとしては、スワンが最終的に自分とは結婚してくれないのかもしれないと思っていた訳ですね。自分たちより交際期間の短い友人カップルが結婚に至ったりもし、オデットとしては余裕がなくなっていたのかもしれません。
オデットがスワンの性格上の特徴をよく掴み、スワンの書き物の中にもそれが現れされるように勧めたといったあたりなんかは、親密なカップルらしいなとも感じました。
スワンが“異種交配”に官能の喜びを感じていた可能性の指摘は、分からなくもないです。
身分違いの恋って、ドラマがあってやっぱり憧れます(個人的には、不良とお嬢様の恋物語とかが好きです。ここで指摘されているのは、そんな浅いものじゃないとは思いますが)。
スワンがただひとつ願った、ゲルマント公爵夫人と妻子との交流は、スワンの生前は実現が許されなかったものの、死後にかなったということも触れられていますが、このあたりのドラマはのちに描かれるようで楽しみです(ただ、そのことを社交的野心として願うのは、私には感覚的によく分からなかったです)。
このことに添えられている、因果律の話はとても面白いと思って読みました。因果律のはたらきは最終的には起こりうる結果を全て生じさせるが、そのはたらきは緩慢になることもあり、われわれが望まなくなったり生きるのをやめたりしたときに、その結果が出ることがあるとのことです。
それにしても、オデットを愛さなくなっていたのに、スワンはどうしてオデットと結婚する決意をしたのでしょうか…。今度は、スワンの気持ちがいまいち分からなくなってしまいました。
続いて、主人公がノルポワ氏にベルゴットのことをたずねますが、ノルポワ氏はベルゴットを人としても作家としても酷評し、さらにはベルゴットの“悪影響”を受けた主人公の散文詩までも批判します。
当然主人公は大変に落ち込んでいる様子ですが、第三者として読んでいる読者の私にとっては、なんだか、ノルポワ氏には文学のセンスがないだけなのではないか…という感じもします。あるいは、ベルゴット個人とのファーストコンタクトの印象が悪かったために、評価がそれに引きずられているのではないかという疑惑ももちました。
主人公は、スワン一家の中に入り込みたいという気持ちが強まっている感じですね。
オデットを見かけたくてブローニュの森に行っているって、初対面のノルポワ氏にしれっと言うことなのか…と思ってしまいました(笑)
3巻<花咲く乙女たちのかげにⅠ>p56-96.
今回は、主人公がラ・ベルマの「フェードル」を観に行くシーンがあります。
この小説の中で、想像の中で期待が膨らむ→現実に触れて幻滅する→再び魅力を見出す、みたいなことが繰り返されている気がします。主人公のラ・ベルマに対する態度も、そんな感じですね。ただ、その魅力を言葉にして(?)確かめようとするところに、文学を志す主人公の個性があらわれているような感じがします。
3巻の最初の方は、時間的に飛んだ間に起こったことに関する説明も多く、主人公がレオニ叔母からかなりの遺産を受け取ったらしきことも記されていました。主人公はまだ子供なので、父親がしっかり管理しようとしているようです。
続いて、主人公が文学を志すことを後押ししてくれそうなノルポワ氏には、主人公の自信作が響かなかった様子で、主人公としては残念でショックですよね。
その後のノルポワ氏の演説見たいなところは、正直、読み飛ばしました。
今月は余裕をもって3巻を読み終えられるといいなあ…。
主人公とジルベルトとの展開も楽しみです。