4巻<花咲く乙女たちのかげにⅡ>p208-240.
挫折した訳ではありません。
しばらく中断していましたが、今週から再開しました。
ただ、この箇所はかなり前に読みました。なので、不正確な部分もあるかもしれません。
主人公は、ヴィルパルジ夫人の甥サン=ルーと仲良くなっています。
そのなかで、主人公が、1人でいるときと友人といるときについて考察している箇所が興味深いです。主人公は、サン=ルーのような友人といても、1人でいるときに感じられる幸福を感じないと述べています。
友人といるときは、自分を心地よくしてくれる印象が心の底から湧きあがってくるのを感じられるのに対し、友人といるとその精神が相手に向かってしまうというのです。
内向的なところのある人には分かる記述かなと思います。何ていうか、食事をするのでも、実は1人で食べる方が料理の感動を味わえる所がある気がします。景色を観るのもそうで、1人で歩いている方が感動的な断片をキャッチして、その印象を味わい切ることができるような気がします。
ただ、一方で、主人公が言うように、本質的な幸せとは違うかもしれませんが、「いい友人がいる」という考えもあるのですよね…。
サン=ルー自身は、とても親切で知的な青年という印象で、若く階級にこだわらないふるまいをしているようです。今流行りの共感性羞恥というか、人の恥になるような行動を目の当たりにすると、自分の顔が赤くなってしまうような心の深みもある青年です。
主人公の悪友ブロックもこの交流に加わってきますが、何というか、サン=ルーとは対照的なところが多いです。社会的な立場もそうかもしれませんが、それよりも性格上の品性というか…ここはあえて対比的に書いているのかなという感じです。
対人関係についての考察もとても面白いです。
他人の機嫌を損なうことを予期するのは難しいため、用心して自分のことを話さないようにするのがよいとのことです。
自分のイメージというのは、自分のいない場で他人が自分のことを話している言葉を通じて作られてしまう面もあり、自分が自分について語ったことが、極めて不都合な解釈をひきおこすことを考えておいて間違いないそうです。
これは、大人になると分かってくることっていう感じがします。でも、たまに自分のことをやけに話さない人っていますが、あれもちょっと印象悪いです。すごく計算高いというか抜け目のない人だなって感じます。
また、人が他人の欠点の話題を通して自分のことを遠回しに話すこともある(人はそこに歓びを感じる)とかも、興味深いですね。
さらに、「われわれひとりひとりには特別な神がついていて、その欠点を本人から隠すか他人の目には見えないと保証するかしてくれる」と書かれていました。ちょっと皮肉っぽいですが、人って自分が嫌われる理由とか他人からどう見えているかとか、なかなか自分自身で正確に把握することはできないですよね。もしそれができる人がいたら、すごいと思います。
主人公たちの交流について戻ると、ブロックは、主人公にはサン=ルーの悪口を言い、サン=ルーには主人公の悪口を言うなんて、典型的な陰湿な奴ですね…。ただ、それに翻弄されるほど主人公は浅はかでなく、とても冷静に捉えています。
これに付随して、主人公にとって、母親や祖母のように“絶対にけがれのない人”(主人公に対し裏表がなく純粋で無条件の愛情を与えてくれる人という意味?)が消滅したと思えるようになってからは、表向きも自分に対して粗野な人間を選ぶか、陰で悪くは使っても傍にいるときは優しく接してくれる人を選ぶかしかなく、後者の方がまだ付き合いやすいと思うと述べています。
私も、これには同意です。前者は自サバの人とかが典型じゃないでしょうか?表向きだけでも優しく共感的に振舞ってくれる人の方が、付き合う上での不快はないと思います。辛辣な本心を見せない(裏表を作る)とういのも、相手に対して手間暇をかける誠意と受け取ることもできますし。
それから、ブロックの虚偽の混じった(と思われる)発言に関して、大胆に真実を口にしながらかなりの嘘を交えるという方法は、広く使われているということも書かれていました。
以上、一週間以上前に読んだ箇所ですが、意外と覚えていました。